Entries

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

コメント

コメントの投稿

コメント

管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://kinoko102.blog.fc2.com/tb.php/37-c8a67054
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

外国人が尺八の本曲に魅せられる理由(3)

横山勝也が「本曲」について語ります。
本曲の本とは、解説的にいうならば「外曲(がいきょく)」の「外」に対する名称である。
琴、三絃などほかの楽器と演奏する場合の「外曲」に対し、尺八のみを持って吹奏する尺八本来の作曲者の不明な尺八固有の曲が「本曲」である。
「本曲」の無名性の逆説的考察に、名を大切にしたが故にあえて無名であったのか、
名を残す必要も無い程、自然に帰一したかを思うことができる。


「手向」は伊勢地方に伝わる曲で、海童先生(横山勝也の師匠)は手向山のたたずまいなども思い描かれてか「大和路ののどやかしさや床しさが薫りたつような曲だ」といったことをおっしゃり、
いかにも飄々として吹かれていた。
おそらくその解釈のほうが正しいとは思うのだけど、
私自身は若い頃からこの曲をなぜかエレジー(恋歌)と感じ、レクエイム(鎮魂曲)として吹かずにはいられないような気持ちをかたくなまでに抱き続けてきた。
その気持ちは未だに変わらない。曲によってはそのように、曲想や曲調をあくまで主観的にとらえることによってはじめて納得して吹けるというケースも少なくない。
私はむしろそれで良いのだと考えている。

あらためて痛感させられるのはのどの曲(本曲)もみな結局は人間の心、
人間の魂の産物だということである。
どの曲にも切実きわまる訴えの心情が吐露されており、また純真きわまる希いや祈りの真情がこめられていたり、あるいは伝統的な民族文化への郷愁のような深い情感が溢れている。
つまり、そこから限りなく人間的な本音の魅力が美しい音色となって流露されることになるのだろう。
しかも、この道の先人たちによって「音楽+信仰+哲学」として求められてきた尺八楽は、
長い歳月の間に、音楽的にも信仰的にも哲学的にも磨きぬかれ、研ぎ澄まされ、地味ではあるけれど揺るぎない存在感をかたちづくってきた。
「本曲」から共通して充足した生命感を受けるのは、
そうした確固たる存在感に根ざしているからにちがいない。(敬称略)

上記の内容は、横山勝也著作「尺八楽の魅力」からの抜粋が多く、内容も少し長くなりましたが、
何となく、外国人が尺八の「本曲」に魅せられる理由が、おわかり頂けたのではないかと思います。
いかがでしょう。


横山勝也「絶対の間(マ)をとるということ」

西洋音楽では音程の長短(音価)、音高(ピッチ)、そして律動(リズム)の要素は記譜の際すべて記号的に表わされる。
リズムの場合はいわゆる拍節リズムとして4拍子とか3拍子とかいった単位の拍子に区切られ、音楽の流れの上での周期的な美的秩序がはかられる。
これに対し尺八の場合は音の長短(音価)を分割せず、すなわち拍節的時間構造に拘束されることなく、曲の前後の流れを見はからいながら臨機応変、リズムをつくってゆく。
その自由リズムによって尺八楽は、西洋音楽のようにあくまでも楽器に忠実であることを感じさせる美的秩序感とはひと味ちがった演奏家のパーソナリティが自ずからかもしだされるような人間的自由感を、聴衆にあたえることになる。
簡単にいえば自由リズムとはそのようなものであろうかと思うのだが、その場合、その自由リズムをつかさどるのは演奏家の呼吸であり、つまり、ひと息の中で音と音との間合いを自分なりに計っていくことが自由リズムとなってあらわれる、ということになろう。
尺八家は、吹奏する曲の曲想や曲調などに応じて、臨機応変、間をとってゆく。
そうした呼吸のコントロールというか息づかいは、感覚的に操作されるから、間はその時その場で微妙な変化を示すことになる。
もちろん理想としては「今の自分にはもうこれしかない」という「絶対の間」をとることが尺八家の望みであり、希いである。「絶対の間」がとれた、と自他ともに認められる場合が「正しい間」ということになるわけであろう。
だが、間のとり方は感覚的なものであるから、そうそう理想どおりにいくものではない。
尺八家個々の演奏能力の問題はさておくとしても、その曲の曲想や曲調に対する理解度や解釈や感情移入の度合い、あるいは心身のコンディションのいかんによって息づかいが左右され、間が微妙に狂ってくる。
「正しい間だ」と自他ともに認めるケースは本当に稀なのである。
メトロノーム的な尺度に従えばよい西洋音楽の場合と異なり、尺八楽に要求されるこの間というものは、自由であるだけにシビアである。間のとり方の敵・不適や上手・下手がそのまま尺八家の演奏の良し・悪しや巧・拙の評価に直結する。聴衆が「けっこう吹けるけれど今ひとつ未熟だな」とか「さすがに年期がが入って円熟している」といった評価をくだす場合の成熟度といったものが、間のとり方からくる印象であるケースは決して少なくないのではなかろうか。
それほど間のとり方というものは、曰く言いがたい難しさのある課題なのだ。(敬称略)
スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿

コメント

管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://kinoko102.blog.fc2.com/tb.php/37-c8a67054
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

Appendix

カレンダー

05 | 2017/06 | 07
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 -

プロフィール

kinoko

Author:kinoko
60歳を越えてFlash動画に興味を持ち、好きな読書や映画の感想と
自作動画をコラボしてみました。
(画像サイズ500KBまでの制約はきついです........)

最新記事

天気予報


-天気予報コム- -FC2-

検索フォーム

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。